『慶応義塾の記』
著者の没後50年を経て著作権の消滅した文学作品を収集・公開している「青空文庫」というサイトがあります。
その「青空文庫」に、
『福沢諭吉教育論集』の『慶応義塾の記』という作品が公開されていました。
(青空文庫)(一部抜粋)今ここに会社を立てて義塾を創(はじ)め、同志諸子、相ともに講究切磋(せっさ)し、もって洋学に従事するや、事、もと私(わたくし)にあらず、広くこれを世に公(おおやけ)にし、士民(しみん)を問わずいやしくも志あるものをして来学せしめんを欲するなり。
そもそも洋学のよって興(おこ)りしその始を尋ぬるに、昔、享保の頃、長崎の訳官某等(ら)、和蘭通市の便を計り、その国の書を読み習わんことを訴えしが、速やかに允可(いんか)を賜りぬ。すなわち我が邦の人、横行(おうこう)の文字を読み習うるの始めなり。
その後、宝暦明和の頃、青木昆陽、命を奉じてその学を首唱し、また前野蘭化、桂川甫周(ほしゅう)、杉田斎(いさい)等起り、専精してもって和蘭の学に志し、相ともに切磋(せっさ)し、おのおの得るところありといえども、洋学草昧(そうまい)の世なれば、書籍(しょじゃく)はなはだ乏(とぼ)しく、かつ、これを学ぶに師友なければ、遠く長崎の訳官についてその疑を叩(た)たき、たまたま和蘭人に逢わばその実を質(ただ)せり。けだしこの人々いずれも英邁卓絶の士なれば、ひたすら自レ我作レ古(われよりいにしえをなす)の業(わざ)にのみ心をゆだね、日夜研精し寝食を忘るるにいたれり。あるいは伝う、蘭化翁、長崎に往きて和蘭語七百余言を学び得たりと。これによって古人、力を用ゆるの切なると、その学の難きとを察すべし。その後、大槻玄沢(げんたく)、宇田川槐園(かいえん)等継起(けいき)し、降りて天保弘化の際にいたり、宇田川榛斎(しんさい)父子、坪井信道、箕作阮甫(げんぽ)、杉田成卿(せいけい)兄弟および緒方洪庵等、接踵(せっしょう)輩出せり。この際や読書訳文の法、ようやく開け、諸家翻訳の書、陸続、世に出ずるといえども、おおむね和蘭の医籍に止まりて、かたわらその窮理(きゅうり)、天文、地理、化学等の数科に及ぶのみ。ゆえに当時、この学を称して蘭学といえり。...(以下略)...
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